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好きなキャラの法則~男性編~

上から好きなものや気になったものについて沢山書いてこい!とのお達しを受けたので、自己開示の練習も兼ねてしばらくこちらの残骸ブログに書き残していく
 
自己開示とか意思疎通しなさすぎて、全くそんな事を思っていないのに、この間家族に「ゆたかは俺の事嫌いかもしれんけど~」みたいな事を言われ酷く衝撃を受けて、これは改善すべきだと痛感した
 
 

 

 

自分の好きなキャラはそれなりに沢山いて、普段男推しの話しかしないが、ちゃんと女推しもいる。
そもそも自分の推しの基準は結構高く、好きなキャラと推しの基準は明確に違いがあり、「人にゆたかは○○推しだよね」と言われても、「いや~~~~?好きではあるけど推しかって言われると微妙・・・」となり、何が違うねんみたいな顔をよくされてしまうので、この場で纏めていきたい。
 
自分の中での推しの基準は、その作品が終わって、供給が途絶えてもたまに思い起こした時に何かが残っているか、みたいな所になっていると思う。
顕著なのが強い感情で、コイツを見てるときにこんなに心が揺れたなぁとか。例えば、自分の中の一番瞬間最大感情動いたで賞はFF14のグ・ラハになる。ビデオクリップに残っている号泣シーンは今見ても泣けるし、今聞いても爆笑できる(号泣)
後は、考え方に強い影響を受けた存在であったり、目標、指標として置いた自分にとっての神のような存在であったり、はたまた何度見返してもやっぱ好きだなぁと思える原初の好きであったり。
 
 
自分の"好き"は、まあ普通に好き(全く関心がないよりは好印象)もあるし、そもそもめちゃめちゃ好きなものに関連するもの、類似したものを意識して好いてしまう性質があるので、年々守備範囲が広がっている。
 
自分の好きなキャラの中には"推しに似てるから好き"と思う人もいるし、反対に「推せるけどお前みたいな推しもういます~~~~類似属性一人で十分です~~~」と謎のプライドで推しと認められない難儀なキャラもいる。(この場合難儀なのは自分である)
そういったキャラは、思い返したら一瞬で心臓が爆発するような、限界オタクになれるような感情の強さが焼き付けられていないので、思い返しても虚無だったりする。
そのキャラを見た時に強いプラスの感情が生じれば生じる程その存在が好きだと認識しているので、もう見たものが、初めて見た時よりも感情強度が下がるという当たり前の事に、子供の頃はよく、あんなに好きだと感じたものがもう好きではなくなってしまったのだと勘違いして、希薄な自分に悲しくなる事が多かった。
今では、暫く経って時を超えてもう一度みて、本当に好きなものは何年経っても好きで、そうでないキャラはその時に必要なものを持っていて、今はもう必要でなくなった、つまり自分が成長した証だと思っている。
 
 
 
ここからが本題
自分は曲であったり、キャラであったり、何であれ自分の"好き"の法則を考える事に凝っている。
これは自分にとって非常に有意義だと思うし、皆にも是非おすすめしたい。
自分の好きを分析すると何が起こるかというと、好きなものの構成がわかる。構成が分かると、再現が出来るからだ。
好きなものも、ただ好きだなぁと思って見ていると好きで終わるけど、どうして好きなのか、何がどういう風に好きなのかを具体的に考え理解すると、その好きを自分で作ることが出来るし、完全に好きだけを詰めた、何よりも好きなものを作る事すら可能であると思う。
これは物を作る人間だけに必要なワケではなくて、例えば憧れる人間がいたとして、その人間を理解して真似するとより憧れに近づいて、より良い自分になれるというすごく当たり前の話だったりする。
 
 
今回詰めるのは好きなキャラの構成。女の子と男の子では法則が違うので今回は男の子。
これはもう生きていくうちで何度も考えたけど、未だに新しい発見があったりする。
 
自分の好きなキャラについて、今までの見解では、自信過剰で実力があって、プライドが高くてひねくれてて偏屈で正直で、あとなんでか気付けば大体皆家族関係で重たい過去とか重たい感情あったり、謎が多くて考察しがいがあったり
みたいな感じなのだが、大体推しって喋り出す前から見た目だとか雰囲気だとかで好感度高くて、公式キャラ紹介ページでお前好きだろ!!ってちょっと気になって追いかけた人間が最終的にやっぱり、お前好きや!!!となったりして、何を材料に見分けてる?と自分でも不思議でならない
 
見た目だけにしてはそんなに似てない割に中身というか、傾向が似すぎているし、その割に見た目だけは好きという価値観もあるので、やっぱりこういう見た目のキャラはこういう性格になるというか、こういう性格のキャラはこういう見た目にキャラデザされているのだろうか、めちゃめちゃキャッチされている張本人なので、そういう好みの人間を的
確にキャッチできるキャラデザ術とか解析出来たらすごく勉強になりそうな気がする。
 
しかし今のところは本質が好きなら見た目なんでも好きな面あるし、(プレデターとかゴスフェとか)そして好きなキャラに似た見た目の人間も好いて、前見た時は全然好きな見た目じゃなかったのに今この見た目めっちゃ好き!!!みたいな実例も全然あり、詰めるにはいろいろと足りないので、別の機会に。
 
 
最近、金ローでチャーリーとチョコレート工場を見た時に新しく発見した事だが、推しは皆子供みたいな大人な面があるなと気付いた
この場合他人からどう見えるか、実際どうかに関わらず、自分がなんらかの点を『子供みたいで可愛い』と思ってるという定義
 
かつて保育園だか小学校低学年くらいの幼い頃にチャーリーとチョコレート工場を何度も見て、その時は将来正しい大人になりたいと考えて生きていたので、主人公である大人びた子供のチャーリーに理解を示し、明らかにやっちゃダメだろって行動をする子供達を嫌い、彼等を不快に思うウィリー・ウォンカに共感した。
 
欲しかったものが手に入ったチャーリーに対し、喜ぶ家族に「高く買うと言ってくれた人がいたし、うちはお金がないから売ろう」と大人びた事を言い、家族を一番に大事にするチャーリーに対して、天才だけど大人げなく子供と張り合って口論し、両親という言葉を言えず、明らかに確執があり、行方が分かっているのにも関わらず何年も会わなかった両親と一人で会う事に気まずさを覚えて、チャーリーが同伴しようか?と言えば即座に「それいいね!よし行こう!」と言う程度には会いたかった様子のウィリー・ウォンカ、
それを見て、子供心に大人みたいな子供と、子供みたいな大人の構図なんだなと思った。
かつては、見たものを理解しようとするだけで自分がどう思ったの気持ちはなく、好きとか推しの概念もなかったのでわからなかったが、今思えばあれが好きなんだと思う。
なりたいものはチャーリーで、好きなものはウィリー・ウォンカだったんだと思う。
 
最近久しぶりに帰って、一番手に入れたと実感したのは、心の広さ。やんちゃする子供達の事を嫌悪ではなく、可愛いなぁと思って見れるようになっていた。成長だと思う
ちなみにかつて一番なりたくないのはベルーカ・ソルトちゃんだった。(彼女が悪いのではなく、わがままで、感謝しなくてみたいな状態)めちゃめちゃ可愛いのと思ってたのはバイオレット・ボーレガードちゃん
しかし悲しい事に、思えば今まさに一番なりたくないと思っていた状態になってしまっていると思う。
 
 
話は戻って、自分にとってチャリチョコは故郷ぐらいの気持ちだったので、意識して見れば、最初の子供みたいな大人に辿りついた。
もう、そのテーマ自体が好きなんだと思う。形は色々あれど、大体どこかしら子供みたいな大人に辿りつく
子供の頃に約束した事に執着して、それだけに人生を捧げる推しもいるし、両親を亡くしてしまった事で人生が変わり、大人になっても本質はやっぱり両親の愛を求めている推しだったり、殺し屋をしていて価値観は常人のそれと違うのに、生まれた時からいない母親という存在に憧れて、神聖なものとして見ている推しだったり、それこそ子供みたいな見た目だけど大人びていて、年齢も三桁以上だったりするのに本質は子供な推しもいる。
 
これらから、子供自体は本質的には好きではない。成長してより優れたものを好むので、子供は当然ながら大抵未熟だから(悪いと言っているわけではない、子供はこれからなので)
大人みたいな子供もあまり好きではない、なんでかと思ったけど、個人的にあまり面白くないと思ったのと、小さい頃によく大人びてるねと言われ、それに対し喜び、それを求めた事が関係あるのかと思った、小さい頃の自分の事はめちゃめちゃ嫌いなので、情けない事にそれが好みにも影響しているのだろうかと思う。
大人はそりゃあまあ人によるけど、それ自体に特に好き嫌いといった特別な感情はない・・・ちゃんとしたちゃんとしてる大人(重複表現)は普通に好き
 
結局、自分がかつて好きだと思ってきた要素の一つ一つ、語彙力を低めれば全部"子供みたい"と言えて、そうかそうか、お前は子供みたいな大人が好きなんだなぁという結論に落ち着いた。
 
 
 
さっきも書いた、元々人間性的に自分の好きだと思っていたのは、賢く実力があり尊敬できる優れた点を持っていて、割にわがままで、好き嫌いがはっきりして、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと言えて、自分に圧倒的な自信とプライドがある大人だった。
これらを書いてやはりというか改めて思ったのが、大人として当然にすべきというような、思った事でも相手を嫌な気持ちにさせる相手に言わないような気遣いがとても苦手なのだと思う。
もちろん、自分がなりたかったのはチャーリーなので自分がするのが苦手という話ではなく、相手が自分を気遣う事が。
好きな人間はこうだが自分がなりたいのは気遣い人間なので、気遣いがうまい人間は勉強になるという意味で好き。(気遣いの解釈違い起こしたことある)
 
 
これらに該当するキャラについて考えた時、この人間がこのように振る舞うのは、人と群れる必要がなく、一人で生きていけるからであって、つまりそれだけのパワーがあるからこのように振る舞っている、そのパワーが好きなのだろうとも思った。
 
つまるところ、優れている人間は優れているということである。
 
ℙ𝕠𝕨𝕖𝕣 𝕚𝕤 𝕃𝕠𝕧𝕖.
 
 
つづく